小説 多田先生半生記
25.終章
私は8月の末に博多に戻ってきた。タクシーを降りる私を見かけたナナ子は怪訝な顔つきをして庭に逃げて行った。長い夏休みもこれでお仕舞いだ。私はドイツに想いを馳せながら、和室の濡れ縁に腰を下ろして、夜空に浮かぶ丸くなりかけている月を眺めながら、ビールの栓を開けた。冷蔵庫でキンキンに冷えたビールだった。ドイツの喉に優しい生ビールが恋しくなった。私は次のビールを注ぐことも忘れて一頻りドイツでの生活をあれこれ追憶していた。涙が一滴頬を伝っていった。いつしか康子が横に坐っている。
「ドイツを思い出してるの?」
「うん、あんなに嫌な思い出しかないように思っていたけど、いざこうして離れてしまうと何もかもが美しい思い出になってしまうんだな。それにしてもドイツのビールは旨かったな」
康子がビールを新たに注いでくれた。いくらか温くなったそのビールがドイツの味に近くなっていた。
「今度はいつか一緒に行こうね」
「そうね、この子が生まれてきたら一緒に連れて行ってね」
康子のお腹はこの2か月の間にいくらか膨らんでいた。これから短い秋がきて新玉の年を迎えれば私たちの新しい命が光を見ることになる。
その数年後、私は新しい風に吹かれてみたいという、ただそれだけの理由で慣れ親しんだだ博多の街に別れを告げた。
多田先生半生記の積りでかきだしたものの、反省するだけの私の生活はこの後も続くのだが、反省してもしきれない私はこの辺りで世間から姿をけすことにしよう。喝
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